無職が働くまでのブログ

無職が働くまでのみちのり。でも本当に働くのかどうかは神のみぞ知る。

結局、巡り巡って、「働く」、しかないんじゃないかなぁ。いやだけど③

 前回の記事はこちら。

haniwaking.hatenablog.com

 

現れた心境の変化

無職になって2か月ほど過ぎたころ。

前々から興味があった哲学関係について本を読んだり動画を見たりしていた(一番印象に残ったのはスピノザ

 

その影響もあってか自分の中に小さな疑問が起き始めた。

それは「今の生活で本当に自分は生き生きとできるのだろうか?」ということだ。

 

確かに今の生活は楽だ。ゲームし放題アニメ見放題でご飯も基本的には親が作ってくれる。

もちろん金の問題はあるが、それも適当にアルバイトをすれば今の生活を続けるには問題ないぐらいは稼げるだろう。

 

しかしなにかが足りない。

 

そう思い始めたのだ。

永劫回帰を乗り越えるには

自分の中で何かがたりない、しかしそれが何かはわからないというもやもやした状態でしばらく過ごすことになった。

ある日、いつものように哲学の動画を見ていると「永劫回帰」という概念がでてきた。

これはニーチェという哲学者が提唱したもので、私なりの解釈をすると「永遠に今の人生とまったく同じことが繰り返されるという、死すらも意味を持たない状態」のこと。

ニーチェはこの極限の状態を仮定して、「この絶望的な状態の中で、人間が自分の人生を肯定するためには(=生きるに値する人生には)何が必要なのか」という問いを立てたらしい。

これはなかなか恐ろしい仮定である。長い人生の中では「とても生きていけない」という心理状態になることがある。そういった心理状態の中で「死ねば楽になる」ということを考えることもあるだろう。

しかし永劫回帰の概念の前ではそれすらも無意味である。なぜなら例え今のつらい状態から死ぬことで逃げようとしても、永遠に何度も同じ人生が繰り返される、つまり同じ悲劇が繰り返されるからである。

この絶望を乗り越えるには、「生きていてよかったのだ」と思えるにはいったい何が必要なのか。

ニーチェの答えはとてもシンプルだ。

 

それは「たった一度の素晴らしい思い出」である。

 

たとえ人生でどんなにつらいことがあったとしても、「本当に生きていてよかった」と思えるような時間がほんのひと時でもその人生にあったのであれば、その人生は「生きるに値する」。

そうニーチェは答えを出した。

 

正直、この回答に全面的に肯定できるかというと疑問の余地はある。

ただこの永劫回帰という問いとそれに対する答えは私の心に不思議と残った。

そしていままで感じていた違和感が疑問となって浮かんでくるようになった。

「この生き方を続けて、生きていてよかったと思えるような思い出は生まれるのか?」

 

そしてそれに対する答えはほぼ決まっている。

否、だ。

 

そして労働へ?

さて、この答えを受けて私はどう動くのか?

本当に働くのか?

 

それはまた次回に

結局、巡り巡って、「働く」、しかないんじゃないかなぁ。いやだけど②

前回の記事はこちら

haniwaking.hatenablog.com

 

無職になってみて

前回の続き。実際にニートになってみてどうだったか。

まず感じたのは本当に自分で好きなことをしていいという「自由」だった。

 

実家に戻って本当に最初のころは、やれ年金手続きだ、住民票の移動だとなにかとやることはあった。しかしそれが落ち着くと、本当に自分の好きに時間を使っていいということで「自由」を感じていた。

 

1時間ぐらい昼寝してもいい。

朝起きてから好きなだけゲームしていい。

何も予定がないからいつ寝てもいい。

加えて実家のためごはんも提供される。

まさに理想のニート生活であった。

(ちなみにやっていたゲームは主に「nier re incarnation」と「アークナイツ」。本当に面白いのでお勧め。)

 

そんな生活が一か月ほど続いて、ふと気づいたことがあった。

それは「何もしなければ何も起きない」ということだ。

 

どういうことかというと、「自分でやろうと思った以外のことはなにも起きない」ということである。

これはまぁ考えてみれば当たり前のことで、誰とも連絡をとらないで一人でいるのだから自分の生活に「他人」というものがが全く存在せず、予想外のことや偶然の出会いといったものがまったく生じないのである(親はもちろんいるがほとんどお互い干渉せずに生活している)。

 

思えば小学校から大学、社会人まで、誰かに言われたことをやり続けていたように思う。

進路などは多少自分で選択したものもあるが、それはあくまで用意された選択肢の中でしかなかったように思う。

これは余談になるが、私は自分の部屋というものをもたず、家族で一つの部屋一緒に過ごすような家庭環境のなか育ってきた。

そこでは自分が好むと好まざるとにかかわらずいろんなことに巻き込まれていた。つまり自発的に何かをしなくても常に何かが起きているような環境だったのだ。

 もちろん環境がすべてというつもりはないが、それによって影響があったのは確かだろう。

 

そんなこんなで、私は、大げさではなく生まれて初めて「自分が何かしないと何も起きない環境」に長く身を置いているのだと気づいた。

 

心境が変化し始める

さて、そんなこんなでニート生活もしばらく続いてきたところで、自分の心境に変化が起き始める。

 

どのような変化が起きたのか?

 

それはまた次回に。

結局、巡り巡って、「働く」、しかないんじゃないかなぁ。いやだけど①

仕事を辞めて実家暮らしして、4か月がたった。

 

この4か月いろいろなことをしたような気もするし、何もしなかったような気もする。

少なくとも言えるのは、いろんなことを考えたということだ。

将来のこと、家族のこと、そして自分のこと。

 

そしていろいろ考えた結果、結局「働くしかないんじゃないかなぁ」という結論にたどり着いた。

 

なぜその結論にたどり着いたのか。

これまでのことを振り返りながら、思考の整理として書いてみる。

 

ことの始まり

仕事を辞めたのは今年の3月だった。

上司に告げた辞職の理由は「ニートになりたいから」。

意外とすんなり受け入れられたが、今冷静に考えてみるとよく怒られなかったなと思う(そこまでがっつり引き止められなかったのを考えるに自分はそんなに大事な人材でもなかったのかも...)。

 

なぜこんなことを言ったのか。

ひとつは、自分にとって「働く」ことの意味をほとんど見いだせなかったから。

もう一つは、実際にニートになってみることが自分の経験になると思ったから、だ。

順に説明する。

前者については、「生きていくだけならほとんどお金がかからない今の世の中で、どうしてこんなにつらい目にあって働かなくちゃいけないのかわからない」という思いが自分にあったということで、理解してもらいやすいと思う。

後者については、シンプルに「最終的に余生としてニートみたいな生活を送るんだったら、いまからニートになればよいのでは?」という発想が根底にある。

老後2000万問題などと一昔前に言われていたのが示すように、一般的には老後の資金のために働くという認識が多いように思う。

ただ自分としては「30年、40年もさきのことなんてわかるわけないのに、その時のために今を犠牲にしてお金のために働くのは間違っているのでは?」という疑問がずっとあった。そんなことをするぐらいなら貧乏でも労働を最低限にして今を楽しむほうがいいんじゃないかと。

幸いなことに、自分はアニメなどの娯楽が好きなのでNetflixなどをみているだけで基本的には満足できるタイプの人間だったし、そのおかげか貯金もそれなりにはあった。

そんな思いの中で、さらに仕事が精神的にきつくなってきたのも重なり「退職」という決意にいたったのだった。

 

無職になってみて

では実際ニートはどうだったのか。

 

...というのをこれから書こうと思ったが、今日は疲れたのでこの辺にする。

 

では。